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ビーユシナナ・アクゥ:第零章


ベルダンギア
〜ならず者の谷〜

 二人は兵士農場を大きく迂回しながらも、馬上の赤い影を追った。農場を越えてしばし進むと、廃れて久しい古い街道に出くわした。しかし、二人は目立つことを嫌い、道は避けて、潅木の中を進んだ。出来る限り馬脚を急がせて。
 とうにビューイは真紅の甲冑を来た武人の姿を見失っていたが、アクティアヌスの心は今だその存在を捉えているようだった。彼は微塵の迷いもなくネメシスを駆っていた。
 幾つかの三叉路や交差路を過ぎ、やがて旧街道は切り立った谷あいへと向かう。潅木の林は徐々に消えうせ、そしてついには街道に出ない限り馬の脚では進むことができぬところまでやって来た。
 アクティアヌスは手前で馬を止め、ビューイを振り返り「このあたりはすでにベルダンギア峡谷の入り口。そして我らは決めなければならない。このまま馬で道を進み、身をさらす危険と引き換えに速さを取るか、それともここからは自らの足で行き、速さと引き換えに身を隠すことを選ぶかを」
「さっきの赤い大将がどのへんに向かったのか、察しはついてるのかい?」
「概ねは」
「どのくらいの距離だい?」
 アクティアヌスはしばし目を閉じ心をじっと凝らして、それから言った。「三里ほど先、この道は滝の裏側に回りこんでいる。そしてそこに隠された洞窟があり、恐らくそこが彼らの地下城砦の入り口となっている」
「微妙な距離だね。しかもそこは敵さんの正面玄関だろ? そこから素直に中に入れてくれることはないだろうよ」
「ならばどうする?」
 ビューイはうーんとひとしきり唸ってから「こっちは二人しかいないんだ。何も好んで不利な取り引きに望むことはないよ。街道に出るのは避けて、歩くことにしようよ」
 ビューイはそう言って馬からおり、馬の背から必要最小限の荷物を選び始めた。アクティアヌスもまたそれに習う。
 やがて準備が整うと、アクティアヌスは青く輝くそれぞれの馬の目をじっと覗きこんだ。二頭のバラミア馬はアクティアヌスの意図を汲みとると、しばらく名残惜しそうに首をぶるぶると震わせて、それから元来た道へと引き返していった。
「彼らは分かってくれた。バハラジーアに帰ると言っていた」
 アクティアヌスがそう言うとビューイはため息をひとつつき「おまえさんの次々に披露される特技には脱帽ものだよ」
 アクティアヌスは微笑み、馬から下ろした荷を肩に背負うと「行こう。目的地は近い」
と言って街道脇の斜面に足を踏み出した。
 幸いな事に間も無く夜の帳が降りようとしていた。夜がくれば黒装束の二人はその闇にうまく紛れることが出来るだろう。ささやかな希望だが、まったくなにも無いよりはましだね、とビューイは思った。

 そのあたりでは平らな場所といえるのは、道の上しかなかった。旧街道の片側は傾斜した登りになっていたし、その反対側ははるか下方に流れるラベラヌーヴ川の細い流れに向かって鋭く落ち込んでいた。
 アクティアヌスとビューイの二人は、街道よりもかなり上の方の斜面を進んでいた。街道沿いのところどころで篝火が焚かれていたが、人影はまったく見られなかった。しかし二人には、それがかえって奇異な事に思えた。
 人気のないところに篝火を焚く意味は?
 何かが通りかかるのを見張っているとしか思えない。ましてや通り道がそこしかないとするならば。
「見張るのはなにもヒトの目である必要はない」篝火のひとつを見下ろしながらアクティアヌスは言った。「アリューシャならば獣といわず草木といわず、生あるものを全て見張りに仕立てることができるだろう。ヴェグスタベールの森で木々が作りかえられていたように」
「ナ・バラムの一人だね? どんな奴だい?」
「彼の名はナズラバロッサ・アリューシャ。かつてバラミアで一番の医師であり、また当代随一の本草学者と言われた男。そもそもあなたがたヒトを生み出した張本人でもある、彼こそが。だが…」
「だが?」
「…だが、彼は少々度が過ぎた。命を扱うのと命を弄ぶのは明らかに違う事。しかし、彼はその一線を見誤った。そしてナ・バラムへと堕した」
「なるほどね…」
 ビューイがそう言って一歩踏み出した途端、その姿がふっと掻き消えた。
 アクティアヌスは少々驚き、今の今までビューイが立っていた場所へと駆け寄った。彼は縦に開いた空洞の中に落ち、そこで呻いていた。
「なんでこんなとこに穴あるかなあ?」ビューイは穴の底で左肩をさすり、別の手で穴の壁を探った。穴はヒトの背丈ほどの深さで、その奥は深く、はゆるやかに傾斜して地底へと続いているようだった。
 ふと彼の耳は穴の奥から聞こえ来る微かなざわめきともヒトの声ともつかない何かを聞きつけた。そして立ち上がって頭上のアクティアヌスに小声で呼びかけた。「おまえさんも降りて来ないかね? こいつぁひょっとするとひょっとするぜ。怪我の功名ってやつかもしれないよ」そう言って、穴の奥へと這い進んでいった。

 ビューイの読みは当たったように思えた。最初の頃こそ、四つん這いになってようやく進めるほどの横穴だったが、下るうちにどんどん広くなり、やがて立ってあるけるくらいになった。下るにしたがって壁や天井はなにかの岩石質へと変化し、崩落を防ぐためか、支柱や梁で補強が施されている。明らかに人為的なものであり、空気を取り入れるための換気穴か、試掘りの跡か、それとも緊急用の脱出口か。いずれにしてもこの先がナ・バラムの地下城砦へと続いているのは間違いなさそうに思えた。
「おっと」
 ビューイは思わず小さな声を出した。足先が不意に水面を叩いたのだ。暗い中で目を凝らすと、そこは唐突に開けた広い空間だった。床のほとんどには水が張られており、それを取り囲むようにして壁伝いに歩行路のような段差が設けられていた。
「そうか。貯水槽のようだね、ここは。雨が降ると斜路を下ってここに水がたまる仕組みになってるのかな。しかし、この構造だと大雨で水没しないか?」
 ビューイは今降りてきた入水口を調べ始め「ああ、なるほど。ここに落とし扉の仕組みがある。あまり大量に雨水が流入するときはこれを閉じるんだね」
「きみたちヒトは、何事にも興味をもち、調べ、理解するように心がける種族なのだな」
「そうかね? まあ、そうかもしれないね。おまえさんがたのように器用じゃないからね。感じることが出来ない分、知ろうと心がけるのさ。」ビューイは壁際の段差に飛び上がり、アクティアヌスに手を差し伸べて「さあ、進もうぜ。ここから先はおまえさんが主役だ」
 アクティアヌスはビューイの手を取り固く握り返して微笑んだ。

 ハリは壁際に立ち、じっとサシリエルの寝顔を見下ろしていた。その美しい顔立ちは日に日に血色を失って行くように思われたし、その手足は心なしか細っていってるようにも思えた。
 眠りから覚めることなく、はや二十四日。
 アクゥが立ってから六日目が間も無く終わろうとしている。
「ハリサエラヴァリヌスよ」オベルザリアが現れてハリに声をかけた。「ヴォセバラミアの容態はどうか」
「知恵者よ。あまり宜しくはありませぬ。特にここ数日、アクゥが出立してからというもの急変著しく思われます。」
 オベルザリアは、ふうむと唸りながら眠れるサシリエルへと歩み寄り、その手を取った。
「冷え切っておるな。おそらく心もまた然り。ハリサエラヴァリヌスよ。アクティアヌスより心の声はまだ届かぬか?」
「未だに何も」
「左様か…。このままでは如何にヴォセバラミアといえども長くは持つまい。何とかせぬのか、アクティアヌスよ」とオベルザリアは嘆いた。
 ハリは目を伏せうつむき、まるでありもしない答えを探しているかのような表情。オベルザリアは優しい光のこもった瞳でハリを見つめ「少し変わろう、ハリサエラヴァリヌスよ。お主は少し休むが良い。今宵は私がここで見守ろう。ヴォセバラミアをな」


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