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ビーユシナナ・アクゥ:第零章


ラベラヌーヴ・ナ・ネウ・ダン
〜自然に背いた川〜

 あれから二回、日が昇っては沈み、そして三回目の朝が来た。
 ヘテラソベスの軍事工廠を火の海に沈めた後、ナ・バラムの軍勢と遭遇することは一度も無く、アクティアヌスとビューイはただひたすらに馬の歩を進め続けた。
 ヴェグスタベールの神聖な森はだんだんとその奥行きと高みを失い、もう間も無くこの森が終わりを告げるであろう事を感じさせる。
「今日も何事もなく終わるのかね?」
 ビューイは誰に言うでもなく呟き「いくらなんでも、そろそろ敵さんも気が着く頃だろうね。三日前の出来事をさ」
「すでに気がついている、あの時に。私がヘテラソベスを縦に割った瞬間に伝わっている。全てのバラミア人に」
 アクティアヌスはビューイに、バラミア人の死に関する不思議な精神的性質について語って聞かせた。
「じゃあ、あの時、おまえさんも痛みを覚えたのかね? その…心に?」
「誰よりも疼いた。一番近くに居たし、なによりも…」アクティアヌスは前を遠くを睨むようにしながら「…なによりも、それは私の手による行いだったし」
「良心の呵責?」ビューイはアクティアヌスの顔を見つめて言った。その表情はまるで川原の石のよう。つるりとしてなにも読み取れないが、叩けば崩れる脆さが滲む。
「それも、あろう」アクティアヌスはビューイの方を見ようともせず「しかし、別の意味もある。バラミア人が一人死ぬとき、別の誰かもまた、共に死ぬ。どうしてそうなのか、なぜその者でなければならぬのか、我らには分からぬ。しかし、太古よりそうだったし、この前もそうだった。一人の命を絶つことは二人の命を絶つことに等しい」
「じゃあ、あの日別の誰かが死んだっていうのかい?」
 とても長い間をとって、それからアクティアヌスはぽつりと言った。「ヘイムグプタが死んだ」
「…不思議なことだね」ビューイはそう言って黙り込んだ。この話はもう止そうと思った。続けたところで、アクティアヌスの心の重荷を増やすことはあっても減らすことはあるまいと。

 空気が濃い乳白色となって棚引きはじめ、あたりの見通しが急速に悪くなってきた。霧が立ち込めてきたのだ。それと同時に遠くから、さらさらと水流の音が聞こえ来る。
「近くに川でもあるのかね?」
「母なる流れラベラヌーヴ。その上流にある、ベルダンギア峡谷は」
 やがて二人の足元は下り坂になり、あたりの樹木は目に見えて低く小さくなった。神聖森林ヴェグスタベールは終わり、そこから先はごく普通に見られるような潅木帯が続いていた。下り坂の先、濃霧の中に、きらきらと光を反射する水の流れが浮かび上がるように見えている。ラベラヌーヴ川だ。
 ラベラヌーヴは、大きな川だが大河というほどではない。今は白っぽい霧のおかげで薄ぼんやりしてはいるが、それでも対岸が霞んで見えるほどの川幅である。
 しかし、その川原は広く、様々な形の丸石や砕石が無数に転がり、合間合間にぽつんぽつんと背の高い草が群生している。
「ちょいと水を補給してくるよ。ここの水は飲めるんだろ?」
 ビューイは馬を下り、その背の荷から金属の筒を取り出して川岸へと降りていった。
 どこからか吹き渡ってきた風が目に見えない波となって寄せ返し、奥から手前へ右から左へと川原の草原を揺らしながら渡り来る。おだやかな川の風はビューイの髪の毛や睫毛を優しく撫でては通り過ぎた。しかし、その優しい感触とは裏腹に何か禍々しい気配と臭気がその風の中には仕舞い込まれていた。
 ビューイはとっさに、六連装輪転式の短銃を抜いた。
 白い霧の中、大きな者が地面から起き上がるのが見えた。その数は一つや二つではない。ごふっごふっと咳き込むような呼吸音がそこかしこから聞こえ来る。
 一つの大きな影が、手にした短い刀を奇声と発して振りかぶり、ビューイに襲い掛かってきた。ビューイは手にした短銃で、風切りながら振り下ろされた刀の刃を受け止めたものの、そのまま跳ね飛ばされて転倒する。
 大きな影は姿勢崩した獲物にとどめを刺さんとするかの如く、ビューイめがけて間隙いれずに踊りかかる。ビューイ、倒れこみながらも強襲者めがけて引金を絞り、相手の脳天を粉々に飛ばす。
 その銃声を合図とばかりに残りの者ども一斉に雄叫びをあげ、刀を手に手に振り上げて、倒れたビューイめがけて突進し、次の瞬間、弾き飛ばされ、押し戻された。
 見ればビューイの目の前に立ちはだかるは黒い影の背。アクティアヌスが馬にまたがり大剣抜いて異形の者どもを威圧する。
「馬に乗れビューイ!」
 アクティアヌスはそう言いながら、大剣をニ閃三閃振り回し、敵をなぎ払っては活路を開く。ビューイは馳せ参じたバラミア軍馬に飛び乗るとアクティアヌスに続いてその場を離れる。
 馬にムチをあてながら、ビューイは前方のアクティアヌスに叫ぶ。「ありゃ、なんだい?」
 アクティアヌスはしばらく走ってから速度を緩め、馬体をくるりと返して後方を眺めやりながら言った。「彼らは川の辺のヴォッサ衆、ナ・バラム軍の手のものではない。しかし、もっとずっと川上に棲んでいたはずだが」
 ビューイも馬を止め、後ろを振り返った。川の辺のヴォッサたちがここまで追撃してくる気配はなかった。
「上流で何かが起きてる?」ビューイは背中に手を押しやると、ぐいと腰を左右にひねった。先ほど投げ出されたときに打撲を負ったらしく、ちょいとばかり痛みが走った。
「それは大いにありえる話、さらにその先がベルダンギアであることを思えば」

 そこからさらに十里ほど上流にのぼったところで、彼らは川の辺のヴォッサ衆が何故下流へと移り住んだかを知った。
 アクティアヌスとビューイは馬を下り、背を低くして林や藪の中を進み、前方を見渡していた。
 アクティアヌスによれば、そこは元々、川の辺のヴォッサ衆が長年棲み付いていたはずの場所。しかし今は大規模な土木工事の跡があり、ラベラヌーヴ川は一度せき止められて左右に分かれた流れに変えられていた。その左右の本流から幾筋もの溝が切られて水を引き込み、本来川底であるはずの場所に広大な水田が広がっている。水田の上には板が網の目のように渡され、作業する農夫たちの姿がちらほらと見える。
「奴らの食料補給基地か」
 ビューイのつぶやきにアクティアヌスは首を振り、「ちがう。異なるものを感じる」
 ビューイは服のベルトに止めていた掌ほどの大きさの薄い板を取り出して、板から小さく突き出ている留め具をぱちんとはずした。すると板は二つに分かれて上下にふくらみ、その間にガラスのレンズが起き上がった。
 ビューイはそれを自分の両の目に軽くあてがい、遠くの様子を窺った。
「なにをしている?」
 アクティアヌスの問いかけに「見てるのさ、遠くをね。おまえさんとちがって、遠くを見るのには道具が必要なのさ、俺にはね」と言い、そこでビューイは息を呑んだ。「なんだい、ありゃ! なんてこったい!」
 アクティアヌスは頷きながら「見えたか?」
 しかしビューイは続ける言葉を失った。
 その水田で栽培されている作物はヒトだった。多くのヒトたちが何かに包まれて水と泥の中にうずくまるようにしていた。
「ナ・バラムの兵士農場。ここで生まれ育ったヒトが送られるのだろう、最前線のバハラージアへと」
「…彼らは戦争のための消耗品ってわけか」
 ビューイは言葉を吐き出して、また、それ以外のものも吐きそうになった。薄桃色の半透明なゼリー状の袋が水田より引き上げられると、農夫のよってその袋が切り裂かれ、絶叫と鮮血にまみれた裸の成年男子が取り出された。別の農夫たちが彼を担いで、大きな荷車のようなものへと運んでいった。
「どうする? ここを潰せば、またバハラジーアにとって大きな助けとなるだろうけど…。しかし…気が進まないなあ。何百何千という生まれる前のヒトたちを屠ることになるのかと思うと…。例えそれが不自然に授かった命であるとしても…」ビューイの言葉は途切れがちだった。
 アクティアヌスは尋ねた。「たしかにこの農場を潰せばバハラジーアの助けにはなるだろう。だが、私にはその方法が見当たらない。君になにか策があるか? ヘテラソベスの陣を潰したような方法が」
「ないよ。爆発木の実は残ってないし、やるとしたら一人一人葬るしかないけど、それも現実的じゃないだろうし、気も乗らないし」
「なれば、ここはそのままに。真に葬るべきはナ・バラムの残り二人。彼らが去れば、ここの者達もヒトとしての生を歩むことができよう」そこまで言って突然、アクティアヌスが歯の間から「しっ」という音を漏らし、ビューイの頭を押さえつけた。ビューイは携帯双眼鏡から目を転じてアクティアヌスの方を見やると、彼は人差し指を立てて自分の唇に押し当てて、そして小さく言った。「バラミア人がいる」
 ビューイがそうっと水田の方を見ると、そこには果たして他の農夫たちとは明らかに違う出で立ちの人物が見えた。
 その者、真紅の甲冑に身を包み、立派な四肢のバラミア馬にまたがいて腰には剣、背には盾を背負い、右手に大きな薙刀を握っていた。頭髪はゆるりと長く銀色に輝き、灰色の瞳をもつ顔立ちは若々しく立派で、全身から優雅と剛勇の二つの気を放っする。
 とはいえ、遠く離れたビューイの目に、そこまで詳細に見えた訳ではない。しかし彼がひとかどの武人であろうことは見てとれた。
「彼は?」ビューイはそっとささやくように言った。
 真紅の武人は馬頭を返して去っていく。その背を見据えてアクティアヌスは小さく言った。「バロモニア。ネウインベーグの赤き誉、サズィラエバリヌス・ミスシリアム・バロモニア。私と双璧を成す剣の者にして、サシリエルが弟君」
 アクティアヌスはやおら立ち上がると、愛馬ネメシスに駆け寄り跳び乗って、ビューイに声かけた。「彼を追う。そこには恐らく、アリューシャもいる。そして…」アクティアヌスはぐいと手綱を張り、脚を使ってネメシスに合図をくれると、誰にでもなく誓うように言った。「…そして二人まとめて倒す」


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