霊峰ガルザハッシュの尾根を焦がすように朝日がまた虚しく昇った。
石造りの室内に開け穿たれた採光窓や入り口から、少しずつ少しずつ、しかし確実に夜の空気の名残を追い出すように、朝靄がきりりとした冷気を伴って流れ込んでくる。
その朝と夜がせめぎ合う部屋の真中に、背もたれも無い粗末な椅子にぽつんと腰をおろしたアクティアヌス・ジークハルバラードの姿があった。黒色に焼き付けられた甲冑の下で本来雄雄しい筋肉は縮こまってしまったかのよう。力を蓄えていく朝の陽光にむけたその背は力なく、自身に立て掛けた一振りの大剣に実は支えられでもしているかのようで、片足の膝を抱え込み、顔をうずめて微動せず、瞳は悲壮の色を浮かべて一点を凝視していた。
彼の前に、一人の女性が横たわっていた。
赤から橙へ、黄色から白へと移ろう朝の日差しに照らしだされ、彼女の銀色の髪は湖の水面のように美しく輝き、わずかばかり血の気のさした頬は命の芽吹く春の丘を思い出させる。
しかし、彼女の両の瞼は神秘的な灰色の瞳を下に覆い隠したままぴくりともせず、お腹の上に上品に乗せられ、しなやかに組み合わされた両の手指は動く素振りを見せなかった。
窓の外を舞う小鳥の鳴き声と羽ばたきが無ければ、その光景まるで精緻に写し取られた絵画のよう、光と色と輪郭の中に時の流れさえも封じ込められたかに見えた。
まったくもって、その通り。
アクティアヌスはそう思い、次に己の考えを呪った。
いつの間にか、アクティアヌスの背後に日の光を背負って影となった男が一人立っていた。
振り向くまでもない。それが誰なのかは気配で分かる。アクティアヌスは、ぽつりと言った。「…ハリか」
「やはり目覚めぬか? ヴォセバラミアは今朝も」
ハリと呼ばれた男はそう言いながらゆっくりと歩み入ってきた。漆黒の口ひげをたくわえて、頭には白い布とそれを留め置くための褐色の輪をかぶり、金糸の刺繍が袖口や襟元に丁寧に施された純白のゆったりとしたローブを身に纏っていた。背には、単発の手動装填式ライフルを背負っている。
「今日で十と七つの日が昇った。だが、サシリエルの…彼女の時間は止まったままだ」
アクティアヌスの声は虚ろだった。
「あまり自分を責めてはいけない、アクゥ」
ハリは片手を気遣うように友の肩の上に置いた。騎士の中の騎士にして、ネウインベーグの黒き誉れとまで謳われたほどの男が、今はまるで一回り小さくなったかのように感じられた。
「クァンタギオンの血をひく者にして我が友、ハリサエラバリヌスよ」アクティアヌスは、肩に置かれたハリの手の上に自分の手を重ねながら「死せぬ定めのバラミアの身でありながら、目を開くことすらできないこの仕打ち。私はあまりにも見るに忍びなく聞くに耐えがたいのだ。いわんやそれが、私の目前、私の腕の届くすぐそこで起きたことの結末とあらば…」アクティアヌスの手に、ぎゅっと力がこもった。「…どうしてこれが嘆かずにおかれよう。あの時、私の目がいくばくかでもガルザハッシュの鷹の様に鋭く…腕が少しでもヴェグスタベールの白蛇の如く敏捷だったなら…彼女をこのような目に会わせずに済んだものを」
「分かっているはず、アクゥ。彼女が受けたのは、目には見えず耳には聞こえぬ毒の針。それは体は痛めず心を縛るナ・バラムの邪悪」
「分かっているとも、ハリ。だが今ひとつ申すなら、彼女はその直前、私に抱擁を求めたのだ。なぜあの時に躊躇したのか。迷うことなく求めるがままに抱きすくめさえしていれば、わが身を盾にできたはずと思えてならない」
アクティアヌスの手から力が抜けた。ハリは、今一方の手をそこにかぶせ、悔恨に責め苛まれている男に力を分け与えんと願うかのように言った。
「今は休めアクゥ。また忙しい一日となろう、今日も」
その時、太鼓のような音がひとつ、大きく長く遠くから響いた。そしてまたすぐ、幾つもの同じ音が呼応したかのように打ち鳴らされた。
「ナ・バラムの軍か」
二人はともに口にすると、サシリエル・ミスシリアム・ヴォセバラミアの横たわっている部屋を飛び出して、城壁へと向かった。
「無理を成すな、アクゥ。眠ってないのであろう、昨夜も。」
「眠りに落ちても見るのは悪い夢ばかりだ、ハリ。なれば寝床より戦場の方が心安らぐというもの。」
二人は城壁に駆け上がり、その先彼方を仰ぎ見た。地平揺るがす轟音と巻き上げられる土埃の奥底に敵方の軍勢の兵どもが見えた。邪悪な生き物をかたどった甲冑をしっかと着込み、手に手に長槍・刀剣・銃を携えたヒト達と、それよりもずっと大きく、ずっと太い手足をもった異形の生物ヴォッサの混成軍が思い思いに軍鉦太鼓を打ち鳴らしながら押し寄せてくるのがみえた。
「ヴォセバラミアの眠りが覚めぬと見越したか。ナ・バラムの奴ら総攻撃のつもりかもしれぬ」
ハリはそう言い、背中に背負いしライフル銃を手にすると、褐色に輝く弾ただ一発だけを装填し、それを構えて狙いすました。
「受けてみるが良い、クァンタギオンの矢を!」
大音声を張り上げてハリが引き金を引くと、赤褐色の光球が負けじとばかりのソニックブームを発して放たれて、敵の厚い布陣を一直線に切り裂いた。一撃百殺の長銃・クァンタギオンの矢は、その弾道上にいた何百人もの兵士をただの一発にして射抜いてみせた。
アクティアヌスは城壁を滑り下りて叫んだ。
「ネメシス!」
アクティアヌスの呼ぶ声に、漆黒に濡れる体毛なびかせて両の目青く輝かせ、馬と呼ぶにはがっしり大きく鹿と呼ぶには優美な螺旋の二本角が、四つの足音も力強く、城砦奥より駆け現れた。アクティアヌスはネメシスにまたがり、また叫んだ。
「開門せよ。バラミアの騎士団は私に続け。敵陣に至るまで、追いつき陣形を整えよ」
見る間にアクティアヌスの周りには、馬上の騎士があれよという間に馳せ参じ、城砦バハラジーアの大軍門より飛び出した。その数六百八十余騎は、まるで津波が陸に押し寄せるが如く、敵軍に寄せては返しこれを砕く。
「ヒトは物の数と思うな。まずヴォッサを切り崩せ」
アクティアヌスはそう言うと、右には輝く大剣ジークハルバラード、左には燃える小剣ジークデルグラードを握りしめ、馬上のままに敵陣へと切り込んだ。
大剣は旋風一陣とばかりに唸り、ナ・バラム兵をなぎ払い、小剣は雷鳴一閃とばかりに踊り、ナ・バラム兵の頭上に振り下ろされた。アクティアヌスが身を捻るたび、愛馬ネメシスが咆哮するたび、ヒトもヴォッサも区別なく、何十という骸が飛び散った。
これはたまらぬと逃げ惑う敵雑兵の背後から、馬上の騎士を突き落さんと長槍部隊が現れ出でて、一突き二突き喰らわすものの、その長槍はたちまちのうちに断ち折られ、短く割られて蹴散らされた。
「地を這う砲がやってくるぞ、アクゥ」
遠く城壁の上に立ち、射手隊を率いるハリが、心の声でアクティアヌスとその騎士団に呼びかけた。騎士一同は散開し、次に備えたその瞬間、無限軌道で大地を削り現れ出でたる五十余台の重装戦車。すべての砲という砲はアクティアヌスへと向けられて、大地を揺るがし音速の斉射を繰り出した。
アクティアヌスはたじろぎもせず、まず一の剣ジークハルバラードを突き出して、防ぐが如くそれをかざす。するとなんとも不思議な事よ、五十余発の弾頭はその行いを咎められでもしたかの如く、ことごとくその場に静止した。またアクティアヌスは二の剣ジークデルグラードを繰り出して、あたかも相手がすぐそこにあるかの如く、遠く空中に浮かびし砲弾どもをなぎ払い、それらを飛んできたところへと押し戻した。
敵の攻めをも味方につけるアクティアヌスのこの剣技に、ナ・バラムの軍勢は悲鳴と罵声を浴びせかけ、バラミアの軍勢は喝采とともに雄叫びをあげた。
"バセーグ・イン・ヴォセヴァラミア・ナ・アクーァ(沈黙のバラミア姫への戦い)"の幕は、こうして切っておとされたのであった。
時に統一ネビュラ暦で一千五十三マイナス年の三月二十四日の朝のことである。
|