冷たい宇宙空間をシンダールの太陽が弱々しく照らし出し、その明りが届かぬ星系の端の暗がりから、鯨の群れがぬっと現れた。鯨たちは微弱な太陽光に背を向け腹をさらし、まるで全身をまんべんなく暖めようとするように、ぐるぐると回りながら、しかし群れとしての統制は決して崩すことなく、その進路を変えた。
鯨の外皮の金属装甲が、一瞬きらりと輝いた。それは背ビレや胸ビレのようなものがある、巨大な宇宙船だった。ドリルの刃先のように回転しながら進んでいるのは、遠心力による擬似重力を船内に発生させるためだった。
背びれの先に窓があり、その窓辺に一人の男が逆さまに立っていた。地上の感覚で言うなら、天井に。これもまた、回転運動によって宇宙線の中心から外側に向かって擬似重力が発生しているからである。
宇宙船の窓には、人体にとって有害な宇宙線の類を遮蔽するコーティングが施されていたが、その男はさらに黒いシャッターガラス付のサングラス―外光の輝度に反応して能動的に濃淡を調整する―をしていた。
詰襟の黒いロングコートの胸には、秤と書物をかたどった青い色の徽章があり、星系におけるその男の立場を表していた。すなわちそれは、ビューダンズと呼ばれるある種の商業組合のマークだった。
窓の外では、星々がゆっくりと回っていた。星の海を背景に、仲間の船が現れては、上のほうへと消えていく。
男はコートのポケットから煙草のケースを取り出して開け、煙草葉をひと摘みすると、咥えているパイプのボウルに放り込んだ。親指で、ボウルを半分覆い隠すようにしながら、ゆっくりとしかし小刻みに息を吹き付け、あるいは吸い込む。そうやって、足した葉に火を馴染ませる。細かった煙がリズムに合わせて大きくあがる。
声が聞こえた。か細いが鈴の音のような心地よい女の声が。「アクゥ…」
星海の向こうに灰色の二つの瞳が一瞬重なって見えた。物心ついてからというもの、何百何千回と繰り返されてきた、コンマ数秒しかないこの寸劇。また例の白日夢だ。
「ここにいたのか、アクゥ」
背後の逆さまの扉が開いて、一人の女が背後に立った。気だるい響きを帯びた声で「しかし、ここにくると体が重いな」
「なにしろここは重力的には船内で一番端っこだからね。おまえさんも酔狂だな」
「その酔狂な場所に何十分もこもってる人にいわれたかないね」
「アウターディメンジョン航行中は外の様子が見られなかったからね。久しぶりに楽しんでるのさ。外の景色」
「外が見れても見れなくても、あまり変わらないじゃないか。アウターディメンジョンの中は青白い発光する空間が見えるだけ。外に出たら出たでどこまでも続く闇が大半」
「ロマンのない男だなあ」
「女だよ。そんなことよりも、ほら、皇帝府からメッセージがきてるよ。アクティアンカ・ジフォート様宛にさ」
ヴェイラリア・ビシャスはそう言って、白いほっそりとした二本の指に挟まれ、小さく折りたたまれた紙片を手渡した。
アクティアンカはその場で紙切れを広げ、目を落とすと眉をひそめ「我らが敬愛する皇帝陛下様の宇宙に広がる栄光の翼の一端に浴させてあげるから、主星到着後に雁首並べて出頭しろってさ」
「なんだい、久しぶりに辺境(エッジズ)から舞い戻ったと思ったら早速お取調べかい?」
アクティアンカは、さあね、と言って肩をすくめてから、恭しく皇帝府の印章が不鮮明に印字された電送紙をくしゃくしゃに丸めてポケットに突っ込むと「自転重力消失まで、あとどれくらいかな?」
「二時間くらいじゃないかな。その後三時間で軌道ドックに接岸して、バハラコルンに上陸。荷の引渡しとか、なんやかんやで、バハラジーアに着くのは二日後くらいじゃないかな」
「ま、今はともかく、水が上から下に落ちるうちにシャワーを浴びておくことにしよう。どうだい? おまえさんも一緒に」
ヴェイルはにっと顎を突き出しながら笑って腕組みすると、答える代わりにアクティアンカのつま先を思いっきり踏みつけた。
十二隻からなるビューダンズ商業船団は、やがて回転運動をやめて姿勢の修正をした後、推進装置も停止して慣性航行にはいった。それから一時間ほど後に衛星重力をブレーキとするための減速航路に入り、トラクターシップとドッキングして惑星軌道上に設けられた恒星間航行艦船用の大型ドックに向かって牽引されていった。
眼下にはニュインベルグ神聖帝国の主星である惑星バハラコルンが緑色に輝いていた。
時に統一ネビュラ暦で一千四百五十ニプラス年、<沈黙のバラミア姫の戦い>より二千五百五年後の秋のことである。
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